「第7回」 我が家の鉄道模型、社報に紹介される
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我が家の全家族と全車輌。長男、次男の誕生祝いも全て模型に化けてしまった |
1962年(昭和37)大阪の本社から明石の工場に転勤となり、工場の社宅住まいとなる。「社宅係り」の方が「社報の工場通信員」も兼務していた為、模型を楽しんでいる事が本社社報編集部へ知らされ、昭和39年3月10日付け「東洋紡社報」(左上)に紹介された。
(注)旧明石工場は当時二見工場と呼ばれていた。
この記事から昭和39年3月現在所有車輌はOゲージ2輌(C62,EF58)、HOゲージ36輌、合計38輌であることがわかる。
当時はまだお座敷運転で 大きなトランス、セレン、 レオスタットが懐かしい。 車輌は 国鉄と近鉄関連のみ |
懐かしいといえば、もう一つ「ブドウ色」の車輌達のこと。新しく出現してきた交流関係電機は「赤色」であるが、直流電機や客車に「青色」が全く見られない。当時はプロトタイプの世界でも「青色」の見当たらない時代であった。
「第8回」 今度は週刊「平凡パンチ」に掲載される (1964年10月12日)表紙
我が家の鉄道模型が社報に掲載され、しばらくして東京支社から「平凡パンチ」の取材に協力してやって欲しい旨の電話があった。 |
当時「平凡パンチ」に連載されていた折込シリーズは (表)がヌード作品集 (裏)がPUNCH
PAPER COLLECTIONで構成されていた。10月12日号を多数購入し、知人、友人に贈ろうかとも考えたが、みんなヌードばかり見とれていて、鉄道模型は無視されそうなので諦めることにした。
ここで40年間の秘密を明かすことにする。写真一番手前右側の新幹線車輌は実は小生のコレクションではない。
その頃、お世話になっていた須磨模型のご主人から「あなたが新幹線車輌に興味の無い事は、分かっているが「平凡パンチ」をみる一般の人々にはこの新幹線ブームの時にがっかりするかも知れないから........」と高価なカツミO系新幹線車輌を撮影用に貸し出してくださったものである。自分のコレクションの主旨をあくまで通すか、一般の人々の興味と関心に妥協するか、一時迷ったが、結果的に須磨模型さんのご好意に甘えることにした。今でも、このご好意には感謝している。
2003年末、天賞堂発売の500系新幹線が40年ぶりに仲間入りした。
「第9回」 初代レイアウト開通式開催
[1] 1966年8月18日 開通式
テープを切るのは次男 |
☆地表の複線エンドレスと高架の複線エンドレスの立体交叉するトラス橋部分で待機する4本の列車の説明
地表 |
内側:EF60501牽引の20系ブルートレイン「さくら」 |
高架 | 内側:C61(鉄模)牽引 ナハ10系(天賞堂) 外側:C57(カツミ)牽引 オハ35系(小高) |
これら4本の列車がテープカットと同時にすべて右回りでスタートした。
[2] その後、第2回 運転会開催
(イ)運転会終了時記念写真
☆車輌説明
地表 | 内側 | C53 | (カツミ)牽引のダブルルーフ スハ32系「富士」(マツモト) (左回りのため、スイテ展望車が見えるが逆にC53は見えない) |
外側 | C57 | (カツミ)牽引のナハ10系(天賞堂) |
高架 | 内側 | EF80 | (鉄模)牽引のナハ10系(天賞堂) |
外側 | C61 | (鉄模)牽引の20系ブルートレイン「さくら」(カツミ) |
地表複線エンドレスでは列車の対向(スレ違い)運転を、高架複線エンドレスでは同方向競走運転を楽しんだ後と思われる。
渡り線 |
地表と高架の内側エンドレス同士を結ぶ勾配 |
(ロ)車輌を中心とした2枚の写真
☆これまでに出なかった車輌の説明
[3] 初代レイアウトの概要
基板 | 大きさ 2730o×3030o |
この基板は厚さ11o“ノボパン”6枚よりなり必要によって6ブロックに分解可能(各ブロックは10oØボルト・ナットで固定)
線路配置 | 木製道床にフレキシブルを固定 |
運転の狙い |
要するに列車の運転、走行を楽しむことに徹したレイアウトである。
[4] 初代レイアウト解体処分に至る経緯
以上の理由から、転勤の無いこと、レイアウトスペースが取れることの2条件が満たされた時、
再挑戦することにし、一時固定式レイアウトから撤退する。
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